
ウクライナ侵攻をめぐり、ウクライナおよびロシアの双方で、キリスト教系の宗教指導者たちが戦争を支持する発言を続けています。宗教が戦争をどのように正当化するのか、そしてそれは信仰の原点とどのように関わるのかという問いが改めて注目されています。
2022年4月3日、ロイター通信が報じたところによると、ロシア正教会のキリル総主教は国軍大聖堂で次のように語りました。
「私たちは、戦争や他人に害を及ぼす可能性のあることを絶対に行いません。しかし、私たちは歴史を通じて祖国を愛するように育てられてきました。そしてそれを守る準備ができています。祖国を守ることができるのはロシア人だけなのです。」
(出典:Reuters, 2022年4月3日)
この発言は、ロシアの軍事行動を「祖国防衛」として神学的に正当化する立場を示したものと受け止められています。一方で、同じキリスト教の枠内でも、ウクライナ国内外の教会指導者からは「暴力の容認」として批判の声も上がっています。
宗教が戦争を支持する構図は、現代に限ったことではありません。歴史上、多くの戦争において宗教的権威が「聖戦」「正義の戦い」として戦闘行為を支援した例があります。
中世ヨーロッパの十字軍や、国家神道のもとでの日本の戦時体制など、宗教が国家権力と結びつくことで戦争を正当化した歴史は少なくありません。
宗教の倫理的教えと、国家への忠誠心や民族意識との間で葛藤が生じる構図は、今もなお世界各地で繰り返されています。
新約聖書のマタイによる福音書26章52節には、次のような言葉があります。
「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
この言葉は、暴力の応酬ではなく平和を志すべきだというキリストの教えを象徴するものとされています。
したがって、戦争を擁護する宗教的立場が、果たしてキリストの教えに忠実であるのかという点には、神学的にも倫理的にも大きな議論があります。
宗教指導者が国家や民族の立場から戦争を支持することは、信者にとって複雑な問題を投げかけます。
信仰が人々を結びつけ、平和を求める力であるのか、それとも国家的理念の正当化に利用されるのか。
戦争の時代にあって、宗教が果たすべき役割を問う声は今後も続くでしょう。